ヴォイス・オブ・ババジ


クリヤー・ババジの人生2

この時期に、ラヒリ・マハサヤは数回ババジに会いました。これは、これまでに2人だけに与えられた特権です。プラヤグ・クンバ・メーラーの時、ラヒリは物乞いをする僧たちの「偽善」を心の中で批判しながらサドゥたちの中を歩いていました。するとすぐに、ラヒリはババジが隠遁者の足を洗い、さらに後で食器も洗いましょう、と言っているのを見かけて、驚きました。これによって、ラヒリは謙虚さについての教訓を得ました。ある晩、ババジは、ヤグナの火を囲みながらラヒリ・マハサヤ、スワミ・ケバラナンダ、他の弟子たちと座っていました。突然、ババジは近くの弟子の肩を燃え盛る木で叩いたのです。

ラヒリ・マハサヤ 「何と残酷な」

ババジ 「こうしなかったら、彼は前世のカルマにより焼け死んでいただろう」。全能の大師は癒しの手を火傷を負った肩におきました。この火傷によって弟子は苦痛を伴う死から救われたのです。ババジの恩寵に栄光あれ。

偉大なシッダ、トライランガ・スワミの弟子であるプラフマチャリミ・シャンカリ・マイ・ジューが、コルタカの近くのバラクプールにラヒリ・マハサヤを訪ねてきました。静かにババジが部屋に入ってきて、2人と話をしました。真夜中に突然、ラヒリは隠遁者のラム・ゴパール・マズンダールに一人で直ぐにバラナシのダサスワメド・ガートに行くように命令しました。この命令は即座に遂行されました。ラム・ゴパールが人目のつかないところに腰を下ろし、しばらくすると巨大な石板が開き、洞窟が現れ、そこからババジのお姉さんであるマタジが空中を浮揚して出てきました。その後すぐラヒリ・マハサヤとババジが物質化して姿を現しました。3人全員がババジの足元に身を伏しました。

ババジ 「肉体を脱ぎ捨てて、無限に帰ろうと思うのですが」

マタジ 「大師(懇願するように)あなたのご計画の一端はわかりますが、なぜ肉体を去る必要があるのでしょう」

ババジ 「目に見えようが見えまいが違いはありませんから」

マタジ 「グル・デーヴァ、もし違いがないのであれば、肉体をお捨てにならないでください」

アウム。親愛なる大師は肉体を保持し、選ばれた数名には見えるようにすることを約束されました。こうして、クリヤー・ヨーガの歴史においての最大の危機の一つがマタジの仲介によって回避されたのでした。ジャイ・マタジ。

この会話の後、大師は怖がっていたラム・ゴパールをなだめました。その後、大師方は空中に浮かびあがり、それぞれの目的地へ立ち去りました。グルデスワール・モフラ・ロッジに戻ると、ラム・ゴパールは、夜の出来事に立ち会ったグルが、ここで他の弟子たちに不死についての講義をしていたということを知り驚きました。ラム・ゴパールはラヒリ・マハサヤが2つの肉体をもって同時に別の場所に存在できる域まで達していることを知りました。

このグルの重要な弟子のひとりには、スワミ・プラナバナンダがいました。プラナバナンダはグルの仲介によりブラフマンと一体になることができました。後に、プラナバナンダは宇宙意識に到達し、同時に別の場所に存在できる力を持つようになりました。最終的に、プラナバナンダは2番目のクリヤーによって指定の時間に肉体を脱ぎ捨て、前もって言われていたように天上での時を僅かに過ごした後、再誕しました。再誕して数年の後、ババジの不滅の集団に加わりました。

ラヒリ・マハサヤのキリストのごとき人生は終わりに近づいていました。ババジは、使命遂行とクリヤー・ヨーガを西洋に広める準備を整えるために、主要な弟子のひとりであるシュリ・ユクテスワルを選びました。ラヒリ・マハサヤに勧められ、ユクテスワルは1894年1月のプラヤグ・クンバ・メーラーに参加していましたが、騒音や、西洋の科学者とは違って人生を無駄にしているという印象を持った下等なサドゥたちの集まりに嫌気がさしていました。ちょうどその時、ヨーギの輝く目を持ち、印象的な弟子の一団を従えた見知らぬ聖者が、ガンジス川の下流の土手で、ユクテスワルを呼び、抱擁しました。自らの素性は明らかにしませんでしたが、これがババジであり、ユクテスワルは気分が楽になったのでした。ババジは、シュリ・ユクテスワルがいつかサンニャーシンになるとほのめかしました(時がたち、これは現実になりました)。それからババジは、多くが欠陥のあるサドゥだからといって、クンバ・メーラーにいるサドゥ全員を非難するのではなく、神話上の白鳥(水と牛乳を混ぜ合わせた時、水を残して牛乳だけを飲むことのできる白鳥)のように振る舞うようにユクテスワルに教えました。

ここで話は神秘主義の長年の問題に移っていきました。これは、東洋と西洋の衝突として知られているものです。国際的な使命を担ったババジは、クリヤー・ヨーガを通して東洋と西洋が調和して発展していくことが必要であると感情をこめて話しました。クリヤーのメッセージを現代で初めて西洋に伝える役割を担うことになる弟子をユクテスワルのところに送ることを約束し、またヒンドゥ教とキリスト教の聖典の根本が同じであることを示す書籍を書いてくれるように頼みました。ラヒリ・マハサヤへの別れのあいさつを残してこの記念すべき出会いは終わりました。

これは、クリヤー・ヨーガの歴史の中で記念すべき日でした。というのは、その日、幸せについてのババジの福音を世界の他の地域に広めるための基本計画が立てられたからです。サットグル・ババジとババジの使命に栄光あれ。次の日、ユクテスワルはバラナシに急いでいきました。グルに素晴らしい出会いとババジのメッセージを伝えるためでした。「この人生のために蓄えられた力は少なくなっている、とラヒリに伝えなさい」。この謎めいた言葉が語られた瞬間、偉大な無欲のカルマ・ヨーギはこの世とのつながりをすべて断ち切り、青ざめた像になってしまいました。沈黙のような死があたりを不安にし、3時間続いたのち、ようやくラヒリ・マハサヤはいつもの快活な表情を取り戻しました。生命エネルギーが尽きかけていただけで、まだ肉体を離れる時ではありませんでした。

一方、シュリ・ユクテスワルは、クンバ・メーラーのサドゥは救世主、つまりババジに他ならなかったということをグルから聞き、人生で最も驚きました。ユクテスワルは、聖なる書『聖なる科学』をヴェーダと聖書の本質を比較したサンスクリット語の美しい詩で生まれて初めて書くためにセランポールの家に行きました。この楽しい仕事を終えるとガンジス川に沐浴に行きました。静かな一日でした。家に帰る途中、濡れた衣服の擦れる音が聞こえるほどでした。何かが心に引っ掛かりました。振り返ると、不死身のババジと連れたちが土手の近くの大きな菩提樹の下に座っていたのです。ババジはユクテスワルが興奮して足元にひれ伏したのを受け入れましたが、セランポールの庵への招待は丁重に断りました。シュリ・ユクテスワルはこの高貴な客人のために甘いものを取りに行きましたが、戻ってきた時には誰もいなくなっていました。跡形もなく姿を消してしまったようでした。数か月後、バラナシのラヒリ・マハサヤの部屋の近くで、ババジがそこにいましたが、日光の後ろに隠れていたため、ユクテスワルには見えませんでした。そこでラヒリ・マハサヤがユクテスワルの額を軽くたたくと、見えるようになり、年を取らない若者の姿のババジに出会うことができました。初めは、前の出来事を思い出して、足元にひれ伏しませんでした。しかし、理由の説明を受けると納得し、跪いて敬意を表しました。愛情に満ちたサットグルはユクテスワルの肩をたたきました。この出来事のすぐ後、1895年のある時間、ラヒリ・マハサヤは肉体を脱ぎ捨てました。

クリヤー・ヨーガを広めるという活動の責任がスワミ・ユクテスワルに移されました。長い間辛抱強く待った後、ようやく運命の弟子であるパラマハンサ・ヨガナンダ・ギリを訓練する機会が巡ってきました。ユクテスワルはこのことを非常に喜びました。ヨガナンダは、抵抗不能な磁力で平安の港へと引き付けられました。厳格なユクテスワルは奇跡のような方法でヨガナンダに大学の学位を取らせました。これはヨガナンダが後に西洋諸国で使命を果たすための準備でした。長年にわたるグルの下での修練を経て、ヨガナンダはグルの恩寵により宇宙意識に到達しました。その恩寵により、ヨガナンダは1918年ビハール州のランチにヨーガの学校を設立し、肉体と精神を神秘的な方法で発達させる独自の体系であるヨゴダを教え始めました。一方でスワミ・ユクテスワルは多数のサドゥ・サバ・センターを設立し、立派な弟子たちとともにクリヤーの火を燃やし続けました。

1920年、ヨガナンダはボストンで開催される宗教指導者国際会議にインド代表として招待されました。招待を受ける前に霊的な導きを受け取っていたため、ヨガナンダはグルの許可と父からの金銭的援助を得て、この会議に参加するための手はずを整えました。アメリカへ発つ前の日、ヨガナンダはこの行動に対する神の許しを求め、西洋の物質主義に誘惑されないように、固い決意で何時間も祈りました。文字通り、倒れそうになったその時、誰かがドアをたたきました。そこにいたのは他でもないクリヤー・ムラグル・ババジでした。ババジはヨガナンダの心を読み、次のように言って安心させました。「天の父がおまえの祈りを聞いた。父は私にこう伝えるように言った。グルの命令に従ってアメリカに行きなさい。恐れることはない、おまえは守られている」。足元にひれ伏した聖者を抱え上げたのち、ババジは自分の人生とクリヤー・ヨーガの将来について語りました。ヨガナンダは感情的になり、ババジの忠告に反し、何度もババジの後について行こうとしましたが、見えない力により足が床から動かせなくなり、失敗しました。ババジは、別の機会に連れて行くと約束し、愛情に満ちた祝福を残してその場を立ち去りました。

運よく、パラマハンサ・ヨガナンダは、現代のクリヤー・ヨーガの最初の伝道師として、8月にインドを発ちました。宗教の科学について会議で講演した後、ヨガナンダはクリヤー・ヨーガのための施設を建てるため、恵まれない環境の中で長年努力しました。彼の多大な努力の結果、今では(1950年代時点)世界中に90の支部があります。アメリカに26、カナダに3、キューバとハワイに1つずつ、南米とアフリカに8、メキシコに6、フィリピンに2、インドに22、ヨーロッパに16、イギリス諸島に4。アメリカのカリフォルニア州ロサンゼルス65サン・ラファエル通り3880マウント・ワシントン・エステイトにある本部は、セルフ・リアライゼーション誌を発行し、コルカタ近くのダクシネスワールにある東洋の本部ヨゴダ・サット・サンガは2週間ごとにヨゴダのレッスンを提供しています。これまでに30万人以上がイニシエーションを受けました。

1935年、スワミ・ユクテスワルのテレパシーでの呼びかけに応じて、ヨガナンダはインドへ向けて出発しました。途中いくつかの国を訪れました。またインド中もまわり、ヨゴダの福音を広め、彼の代表作である『あるヨギの自叙伝』の資料も集めました。マハトマ・ガンディが弟子になりました。ヨガナンダはババジに再び会いたがりましたが、ババジ自身はヒマラヤに留まったまま、スワミ・ケシャバナンダを通して別の機会に会うと伝えてきました。

1936年3月、スワミ・ユクテスワルは81歳で亡くなり、パラマハンサ・ヨガナンダ・ギリに責任を引き継ぎました。ヨガナンダはこの地上でのクリヤー・ヨーガの活動を引き受け、グルはヒラナヤ・ローカで仕事を続けました。1936年の後半、ヨガナンダはアメリカに戻り、10年以上にわたり、精力的にクリヤー・ヨーガの活動に尽力しました。1951年の終わりには、ヨガナンダがもう一度インドに戻るという噂がありました。しかし、1952年の前期、サーダナのために数か月間隠遁生活を送っていたヨガナンダは、インドのアメリカ大使のために開かれた歓迎会に出席しました。ここでヨガナンダは突然肉体を脱ぎ捨てました。肉体は20日経っても朽ちることなく、このことがアメリカや他の場所でセンセーションを巻き起こしました。ヨガナンダはシュリ・オーロビンドやルルドの聖ベルナデットのような聖者たちの仲間入りをしたのです。

この大きな損失を埋め合わせるために、ババジは、軽視されていましたが有能であり経験豊かなジャーナリストを偉大な魂に育てることに決めました。ババジの辞書に不可能という文字はありません。これから語られる興味深い出来事は秘教徒にとっては珍しいことではないでしょうし、他の人にとっても思索の材料を提供してくれるでしょう。


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