Babaji's Kriya Yoga
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それらは異なるものに非ず


  霊性修行を行っていく上で解決しなければならない最も重要な問題の中には、神の存在や本質、そしてそうした至高の存在との関係や体験について何を望むのか、といったことが中心となっているものがある。宗教における偏狭な概念を超越するようなものの見方を前向きに受け入れ、宗教に特有の対立・不和などを正しく見る目を持つことができるなら、たとえ識者ではなくとも、この問題はもっと容易になる。実際、神秘主義においては、マインド自体が沈黙した時にのみ、そのような問題の解決がなされ、叡智の黎明が訪れるとしている。


ヨーガの伝統においては、ヨ−ガシッダとして知られる神秘家たちが詩編の形で計り知れないほど貴重なアドバイスを残してくれている。それを読む者が従来の見方や価値観に囚われないようにするため、これらの詩編はしばしば逆説的であったり、皮肉交じりであったりもする。イエスの例え話のように、この詩編は読者にショックさえ与えるかもしれない。


私の師、ヨーギー・ラマイアから私が得た最も偉大な贈り物の一つは、そうしたシッダ達の詩編の真価を認識したことだったと思う。彼の弟子たちが集まる会合に私もかつて出席していたのだが、それはほとんど毎回、18人のシッダ達への賛歌に始まり、次に、46行ほどの詩編の朗唱が続くのであった。その後、師はその詩編を英語に訳し、それを中心とした講義をしてくれた。あまりにも強烈なインスピレーションのために、時折、師はまるで何か偉大な存在が彼を通して話しているかのように文字どおり光り輝いていることがあった。師は、毎日のサーダナの一部として、詩の一節を読み、朗唱し、そして瞑想するようにと主張していたものだ。


  私は情熱を持ってこのサーダナを習慣的に行い、成熟させていった。シッダ達の詩編を探し求め、翻訳し、出版してきた。それらは、ババジのクリヤヨーガの修習において、また日々直面する挑戦や人生の重要な哲学的問題の解決において、知恵と導きを与えてくれる大きな源泉となっている。


以下の詩編はイダイカダ−ルというシッダの書いた詩からの引用である。イダイカダールは聖山アルナーチャラに住んでいた牧人であった。その山は近年になって聖者ラマナ・マハルシの住まいとして広く知られるようになっている。牧人であったイダイカダールは、しばしば「牛(Cow)」という言葉を詩の中で用いている。というのも“Cow”はタミル語で”pasu“(個別の魂)を指すからである。聖典シヴァ派の神学では三つの存在を考える。それはPati Pasu、そしてPasaであり、Patiは神、Pasuは魂、Pasaは束縛(足かせ)、あるいはこの世への執着という意味である。「pasa」には三つの種類がある。一つめは真の自分を知らないこと(アビドゥヤー)、二つめは過去の思考・言葉・行為の結果(カルマ)、三つめは心的迷妄(マーヤ)である。


遍在の神を瞑想しなさい、魂たちよ。そして礼拝しなさい。                             
魂たちよ、そうすれば至高の状態に達し、常にそこに留まれるだろう。                
18人のシッダのヨーガ:アンソロジー』378ページNarayanakkon Kurudal 34節


 人生の渦中においても完全に「今」に存在し、いつ何時でも存在自体に集中することによって、人は真我実現へと至ることができ、またその状態を持続することが可能となる。


魂たちよ、もし昼夜を問わず神の御足を求めることができるならば、                       
魂たちよ、自己実現の状態に到達し、完全なる唯一者を見るだろう。(35節)


  「御足」とは神の臨在の象徴である。前述の節に出てくる「遍在」という語は人格をもたないものであるが、この節では人格神という意味で使われており、われわれはその御足に触れることができる。ここでイダイカダ−ルは、原因と結果、さらに究極の結末について保証してくれている。個別の魂は自身で努力しなければならない。しかしそうすれば自ずと結果は生じる。努力は継続的に行われるべきで、途切れることがあってはならない。


魂たちよ、神の救い以外には何もないのである。                                  
魂たちよ、霊の中の霊、それが聖なる神の御足なのだ。(38節)


  神の「救い」、恩寵あるいは愛は絶対不可欠な条件であり、それは前述の節に記されている真我実現のための必要条件の根幹をなすものである。この節は個我と神との関係に関するシッダたちの哲学を示したものであり、一言で言えば「それらは異なるものにあらず」ということだ。「霊の中の霊」とは世の中に存在するものは霊(魂)以外には何もないという意味である。


  シッダたちによれば、神(Pati)は言葉によって限定されるものではない。神とは至高の理念であり、「それ」と表現されるのが最も相応しい。神とは至高の意識であり、その意識とは個別の魂と神とが共有するものである。存在の基盤は意識であり、意識がマインドの動きと五感が経験するものとを目撃する。


   「それらは異なるものにあらず」という言葉は、神が実在であるということだけではなく、人間としての魂の生存もまた、それに伴う苦しみとドラマのすべてを含めて、実在であるということを示すということからも非常に重要である。それは実在であるがゆえに、放棄されたり軽んじられたりすべきものではなく、正しく理解され霊性修行の場とされるべきものである。これはインド哲学におけるユニークな考え方である。アディ・シャンカラ以降、インドにおいて主流となった哲学的観点は、ブラフマンのみが実在であり、他は全て幻影(マーヤ)だというものである。これは「アドヴァイタヴェーダンタ」あるいは「不二一元論」 として知られ、「汝はそれ(最高原理)なり」、「われはブラフマ ンなり」という偉大な格言に要約されている。しかしシッダたちはこう教えてくれている。われわれの霊的進化は水平方向にも垂直方向にも向かわなければならず、それゆえ、人間の本質を変容、完成、成就させることまでも含むものでなければならないと。


私がヨーギー・ラマイアに、私達には自由意志があるのかどうか尋ねた時、彼の答えは、見せかけの自由意志は限定されており、それはただ牛や山羊を繋いでおく足枷、或いは縄と杭、つまりパサの様に限られた範囲のみに存在するというものだった。縄の長さに等しいその半径の中では牛は自由に動けるが、それを超えることはできない。同様に、個々の魂は無知やカルマやマーヤーによる制限の中でのみ自由である。人がこれらと、これらの現れであるエゴ、執着、嫌悪や習慣に気づき、それらから離れると、神の臨在の前で本当の自由を見つける。


あなたがハートの中にある太陽を礼拝できますように、                            マインドと言葉と肉体を越えた存在を。(同書380頁48節)


更にこの節は神を、至高の理念、説明不能にして尚且つ全存在に浸透すると描写している。「それ」は感じ、覚知することはできるが、説明できず、隠喩に依らざるを得ない。彼は、人知を超えた光輝を放ちながらも、全てを照らす意識の力と光として経験可能な至上者を言及するのに「太陽」という言葉を使う。気付いている「それ」に気付くためには瞑想を通してマインドの中で神を礼拝する必要があることもそれは強調している。


時の位相を超えた太陽の光をマインドの中で捕え、絶え間なく礼拝することができますように。  (49節)


これは、全てが生じ、そして全てが戻っていく意識の光への絶え間ない気づきのヨーガを示す。それは、瞑想の対象、つまり「偉大な白い光」に関するよく知られた神秘体験を生じさせ得る瞑想の対象を見事に描写している。


あなたが神を礼拝しますように。 三つ揃い、三つの果実の第一の存在                
砂糖、神々の食物、天人に礼拝される存在の中の。(51節)


ここにおいて、「三つの果実」や「砂糖」に暗示される甘美さは、神との霊交の経験が「甘美」であること、つまり至福に満ちたものであることを、また甘美な至福について瞑想し、それをますます発現することによって、人は神を実現させ得ることを示している。故に、神に近づくことはできる。


太陽の光で露の雫が蒸発するように、                                     
初期のカルマを取り除いてもらおう。                                      
神の仲間と共に神を讃え、                                              
真の自由を達成せよ。おぉ、導師よ。(8節)


一行目は、理智または意識(太陽光)は欲望や嫌悪によって生じたカルマを難なく溶かすことができることを示している。三行目は、神は「意識のエネルギー」であって、それは神の創造物から引き離すことができないものであり、それに集中し、エゴの感覚がなくなると、それは人の内で輝きを放ち、人は平静に生きることを示している。


私はマインドの中にシヴァの光彩、                                                                                                      
ネクタル、純粋な蜜、選ばれた地球と他の惑星、
                                                                           
5つに発展した1つのもの、素晴らしい空の光、                                                                          
幸福の海原を持ち続ける、そしていつもそれと共に生きる。(11節)


言葉では言い表せない神を表現するのに、シッダのお気に入りの隠喩のひとつは「ヴェッタヴェリ」である。それは、広大な輝く空間、言い換えれば「空の光」を意味する。それは光り輝く自己認識として自らのうちに見出される。「5つ」とは5つの自然界の要素のことである。


ブラフマンは空の如く空虚である                                          
これがよく理解され、崇拝されることが肉体を持った魂を救済する鍵だ                    
もしそうでなければ、救済はあり得ない。おぉ、導師よ。(
2節)


ブラフマンを知ることによって、苦しみと伴った肉体の枷から永久に自由になることが可能になる。ブラフマンは空を超え、実際「虚空」であり、「スンニャ(空:くう)」として言及される。「スンニャ」は純粋な無ではなく、同時に満ち満ちている。それはすべてを含んだ包括的な言葉で、同時にそれらを超越し自由である。それは、概念で縛られない開かれた相(次元)を表し、時空を超える。主体も客体もない。


  シッダの詩を瞑想することは、それ自体がひとつのイニシエーションである。


愛情を込めて見よ、「空なる」対象を                                      
果てしない広がりの中で、クダンバーイ(娘さん)。                              
愛情を込めて見よ。                                                 
自らの肉体の内に                                                   
遍在する光を見よ、クダンバーイ(娘さん)。                                  
あなたの肉体の内を見よ。                                             
ブラフマン、空の光は                                                
眼の光になるだろう、 クダンバーイ(娘さん)。                                
眼の光に。                                                                    
18人のシッダのヨーガ:アンソロジー』325から327ページ                      
Selections from Kudambaiccittar’s poems
7814


  ブラフマンを理解するためには、自分の内面に注意を向け、専心集中し、「意識しているもの」を意識すればいい。すると、見る者と見られるもの、つまり認識する者と認識される対象と認識自体が一つになる。縛られていない「それ」、すなわち神のみに繋がることにより、人は解放、そしてムクタとして知られる真の自由を実現する。知的アプローチや書籍を超え、この世の物事への執着を手放し、それ(ブラフマン)に集中し、それと一体であり続ける時、真我実現がもたらされる。


お母さん牛はいつも愛情豊かに子牛を連れている                              
これと同じで、もしも核心と一体になれば、                                    
解脱は手中にある、クダンバーイ(娘さん)。                                     
そのような専心により、人は解脱に至ることができる。(
59節)


博学なものたちは、それを                                                                                                                     
縛られていない存在をとらえた時、解脱に至る、クダンバーイ(娘さん)。
                                        
博学なものたちは解脱に至る。(52節)


「それ」という言葉でシッダが表したものに眼を向けた時、真理は明らかになる。イニシエーションを受けた者は、これらシッダの詩に隠された意味を求める時には第七のディヤーナ・クリヤーである「ババジ・サンヤマ・クリヤー」を使うように指導される。




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